天才・三島由紀夫の才能と経歴:東京大学は首席で卒業? 英語、フランス語以外の語学力とは?

没後50年以上が経っても今なお色褪せない作品を多く残した文豪・三島由紀夫。
血筋を遡れば徳川家康にも当たるその生まれ。

彼の人気は今でも衰えず、彼は天才作家として称賛されていますが、彼がどのように天才的だったのか。

そして東京大学の首席だったという情報、英語とフランス語の能力、そして彼の経歴について詳しく解説します。

 

三島由紀夫のプロフィール

本名:平岡公威
生年月日:1925年1月14日
死没:1970年11月25日 (享年45歳)
身長:163cm
出身地:東京都新宿区四谷
最終学歴:東京大学法学部法律学科

 

三島由紀夫はどのように天才的だったのか?

まず、天才作家として称賛される三島由紀夫がどのように天才的だったのかを見ていきましょう。

三島と親交があった美輪明宏は、彼を「日本が世界に誇るべき真の芸術家」と評しています。
三島の文学は、日本人の美意識を描き出し、世界に誇りを持って紹介できる芸術作品であると言えるでしょう。

そして、その魅力は作品だけにとどまりません。
かつて病弱で男性としてのコンプレックスを抱えていた三島は、自分の劣等感を見事に作品に昇華させています。
その結果、病気や体力、同性愛など、さまざまな問題に直面する人々の心を直接打つ力が、彼の作品には存在します。

独自の美意識を持ちつつも、一般の大衆の心をつかむことができるのは、三島の文学だけと言えるでしょう。

この点から見ても、三島は流行に左右されずに普遍的な感動を与えることができる、「真の天才」だったと言えるでしょう。

 

三島由紀夫は東京法学部を首席で卒業?

次に、三島が東京大学の首席だったという情報について見ていきましょう。

天才作家である彼が東京大学の首席だったとしても驚くことはありません。

しかし、三島は東京大学に現役で合格したものの、首席だったという情報は存在しません。

その代わり、彼は学習院高等科を首席で卒業しており、その事実は確認されています。

卒業式では、総代として昭和天皇に謁見し、恩賜の銀時計を受け取りました。

東京大学の首席という情報は、学習院高等科の首席という情報が混同されて生じたものかもしれません。

 

三島由紀夫は英語、フランス語以外に何語を喋れた?

 

次に、三島の英語とフランス語の能力について見ていきましょう。

・英語

英語については、論文の読み書きだけでなく、ネイティブレベルの会話も難なくこなしています

発音は現代のように海外の情報が手軽に入る時代の人ではないので、いかにも日本人らしい話し方です。
しかしスピードも速く、専門用語も交えながら余裕で会話を楽しんでいる印象さえ受けます。

・フランス語

三島はフランス戯曲に影響を受けた作品を発表するなど、フランス文学への造詣が深いことで知られていました。

フランス語の知識レベルも高かったはずですが、会話は日常会話レベルならこなしていたようです。

フランス語インタビューの映像では、質問内容は理解しているようですが、受け答えは部分的に日本語。

ネイティブでも理解できるレベルのフランス語を話せているものの、英語よりは不得意だという印象を受けました。

ただし時代を考えれば、ネイティブと基本的なやり取りができる時点で、かなり高い語学スキルを持っていたといえるでしょう。

・それ以外の言語

残念ながら、三島が英語、フランス語以外にどこかの言語を使用した記録は残っていませんでした。
ただ、作家として色々な文献に触れる中で、中国語やロシア語辺りが使えていてもおかしくありません。

 

三島由紀夫の経歴、その生涯の最期

最後に、三島の経歴をまとめていきましょう。

三島は、官僚の平岡梓と妻の倭文重(しずえ)の長男として、幼少期からエリート教育を受けています。

学習院高等科を首席で卒業するほど学業優秀でしたが、病弱で兵役も高熱で免れた経験があり、コンプレックスを抱いていました。
病弱ゆえの劣等感、また同性愛的傾向があるという意識はのちに『仮面の告白』などの作品に描かれています。

その後、東京大学法学部を卒業後、大蔵省に入省します。
しかし、小説家を志してすぐ退職。

その後は順調に人気作家となっていきました。ノーベル文学賞候補になるものの、師匠である川端康成の受賞で賞を逃し、以降は徐々に国粋主義者としての活動に軸を移します。

 

「楯の会」を結成して、急進的なデモ隊が暴徒と化した際には鎮圧するべく訓練に励んでいた三島。
しかし決起する機会を逸し、1970年に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、割腹自殺を遂げました。

壮絶な人生の中で、三島は自分の理想を追い求め続けたのでしょう。

文学においても政治においても、理想が遠ざかっていき、年齢だけを重ねることに焦りがあったのかもしれません。
独自の美意識を持っていたインテリだからこそ、こだわりも強く、孤独と不安が募っていくつらい晩年を送ったのでしょう。

天才の心中を推測するのは難しいとはいえ、作品を読むことで彼の孤独、劣等意識を垣間見ることができます。

多くのファンは作品を通して、三島の悩みに自分の悩みを投影させているのでしょう。