和服の似合う上品な美人女優として1960年代から1980年代まで「テレビドラマの女王」として君臨していた池内淳子さん。
テレビドラマで毎作20%以上の視聴率を獲るために「20%女優」とも呼ばれていました。
残念ながら2010年に76歳で亡くなってしまいましたが、亡くなる直前まで女優業に力を注いでいた池内淳子さん。
年代問わず人気があった池内淳子さんには旦那さんや息子さんがいるという話がありますが、実際のところはどうなのでしょう?
今回は、池内淳子さんのプライベートについてまとめました。
もくじ
夫は?息子は?和服美人女優・池内淳子プロフィール
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本名 中澤 純子(なかざわ すみこ)
生年月日 1933年11月4日
没年月日 2010年9月26日(76歳没)
出生地 東京府東京市本所区東両国(現:東京都墨田区)
血液型 O型
職業 女優
ジャンル 舞台、テレビドラマ、映画
活動期間 1955年 – 1957年、1958年 – 2010年
配偶者 柳澤愼一(1957 – 1958年)
和服の似合う美人女優として妖艶な役から庶民的な役まで幅広く演じ、ドラマや映画、舞台で活躍した池内淳子さん。
高校卒業後には当時の日本女性の憧れだった日本橋三越の入社試験に合格したものの、まだこの頃の日本は女性が外で働くことが珍しい時代。両親には反対されたそうですが、祖父の許しを得て就職。配属先だった呉服売り場では、のちに共に女優と活躍することになる前田通子さんもいたようで2人の美貌が評判になっていたのだそう。1年余りの勤務ののちに日本橋三越を退社し、花嫁修業のために和裁・料理学校に通っていましたが、友人の勧めで1954年に週刊芸能誌『サンケイグラフ』の第2回「カバーガール」に応募。新東宝本社で開かれた選考委員会で1位に輝いたことが芸能界デビューのきっかけとなりました。
1955年には『皇太子の花嫁』で映画デビュー。翌年には初主演映画も公開され、新東宝の看板女優として一躍注目を浴びます。数々の青春映画や時代劇に清純派女優として出演していましたが、人気絶頂の1957年、24歳の時にジャズ歌手で俳優としても活躍していた柳澤愼一さんと結婚されました。
池内淳子はデビュー後すぐに結婚!…が即離婚?間には息子も?
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1955年に映画デビューした池内淳子さんは、1957年に柳澤愼一さんと結婚。
柳澤愼一さんは身長176cmと、当時の俳優の中ではとても高身長でスタイルが良くイケメンだったようで、お似合いの2人として世間から祝福されました。
2人は当時の日本人の憧れの結婚式場である品川プリンスホテルで盛大な結婚式をあげました。
池内淳子さんは結婚後、芸能界を引退しています。
しかし、その結婚生活はなんと3か月も続かず、池内淳子さんは実家に戻っていたそうです。その後1年足らずで2人は離婚。今でこそ“スピード離婚”も珍しくない時代ですが、1950年当時は離婚自体のイメージも良くない時代。それをたった1年で離婚することは、周りの評価も大きく下がるのは避けられないことだったため、池内淳子さんにとってとても大きな決断だったと考えられます。
2人の離婚の原因は、性格の不一致や、姑との関係が悪かったなど様々な噂があります。
結婚を機に女優業も引退したにも関わらず、スピード離婚を決意し、女優として復帰した池内淳子さんはとても芯の強い女性だったのでしょう。
スピード離婚した池内淳子さんですが、息子さんがいるという噂があります。
詳しく調べてみると…
池内淳子の息子に関する噂の真相は?
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結婚後、3か月で不仲となり実家に戻ったと言われている池内淳子さんですが、息子さんがいるという噂があります。
詳しく調べてみましたが、柳澤愼一さんとの間には子供はいませんでした。
では、柳澤愼一さんとの離婚後に別の方と再婚され、その男性との間に息子さんが生まれたのでしょうか?
池内淳子さんの再婚についても調べてみましたが、柳澤愼一さんと離婚した後は生涯独身を貫いて女優業一本の人生を送っていたようです。
息子どころか子供がいなかった池内淳子さんに、なぜ「息子がいる」という噂が流れたのでしょうか?
これは憶測に過ぎませんが、池内淳子さんは長年にわたって女優業を続けており、『割烹着姿が似合う健気で爽やかなお母さん役』というハマり役を数々演じてきました。
演じた役柄の「お母さん」というイメージが強く、そのため「息子がいる」という勘違いのイメージが定着してしまったという可能性が考えられそうです。
また、他の原因としては「池内淳子」というお名前。活躍している女優さんの中には、「淳子」という名前の女優さんが意外にも多いのです。
たとえば、高畑淳子さんや櫻井淳子さんなどなど。年代や読み方は違うものの、どちらもお子さんがいる女優さんであることから、池内淳子さんにも息子さんがいるのでは?と勘違いされてしまった可能性もありそうです。
子供も息子も居なかったことが判明…スピード離婚後の池内淳子さんの活動は?
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柳澤愼一さんとスピード離婚をした池内淳子さんはその後、新東宝と再契約をして1960年に「花嫁吸血鬼」で映画界に復帰しました。
「花嫁吸血鬼」での池内淳子さんの役は、なんと、毛むくじゃらの怪物に変身してしまう悲劇の美女!特殊メイクをして演じています。
なんでも、当時、新東宝の社長だった大蔵貢さんは、元々池内淳子さんの結婚に猛反対だったそうで、池内淳子さんはその反対を押し切る形で結婚、引退をしたのだそう。
結果、スピード離婚でスクリーンに復帰することになった池内淳子さんへの報い?ということで不本意な役ながら、泣く泣く引き受けさせられたのではないかという噂です。
しかし、当時の新東宝では、こういった役を美人女優がふられるのは池内淳子さんに限った特別なことではなかったとも言われているので、たまたま復帰作が奇抜な役というだけのことだったかもしれませんね。
息子がいるイメージも…1人で闘病していた池内淳子。死因について…
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女優業一筋だった池内淳子さんですが、2010年9月26日に76歳で亡くなっています。
実は、逝去された3年前の2007年には肺腺ガンと診断されていて、人知れず治療をされていたのだそう。
2007年4月に、胸に違和感を覚えたことから検査入院をした池内淳子さんは、当初は「間質性肺炎及び胸水貯留」で3ヶ月の安静と治療が必要と診断されました。
そのため、翌5月から予定されていた舞台「怪談牡丹灯籠」の全国公演を降板されています。「間質性肺炎」の治療をしつつ、検査を重ねていくと右肺の上葉に腫瘍も見つかり、「肺腺ガン」と判明しました。
その後、池内淳子さんは月に2回の通院で抗がん剤治療を続けていたそうですが、2010年3月に再発が判明してしまいます。
翌4月からは、池内淳子さんが1998年からライフワークとしていた主演舞台「三婆(さんばば)」の公演が控えていました。
池内淳子さんは「最後まで仕事をやり遂げたい」と舞台を優先することを決意し、周囲にガンであることを隠し、舞台に立ち続けたそうです。のちの関係者の話では、「病気であることを全く感じさせず、座長としても周囲に気配りをしていた」とのこと。
4月5日の「博多座」で、舞台「三婆」主演通算400回を達成した際には「こんなにいいご褒美はありません」と笑顔で話し、5月16日の「中日劇場」で441回目の千秋楽を迎えた際、カーテンコールで共演者が、「また池内さんに雇ってもらって、やりたいですね」という発言に池内淳子さんも「ぜひやりたいわね」と通算500回公演への意欲も見せていたのですが…。
舞台を終えた直後に治療を再開するも、8月中旬には再入院。9月中旬には容体が悪化し、9月26日、妹さんらご家族に看取られながら都内の病院で息を引き取られました。
息子はいなかった!生涯女優一筋を貫いた池内淳子に対する世間の声
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今でも「美人」と語り継がれる女優さんなことが分かりますね。
視聴率20%女優と呼ばれた池内淳子に息子はいる?スピード離婚や晩年の闘病について・まとめ
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テレビドラマの女王、視聴率20%女優と言われていた池内淳子さん。
1度結婚をしましたが、スピード離婚されて、その後再婚もお子様も持たずに76歳で逝去されるまで生涯女優一筋として生きておられました。
昭和を代表する大女優として活躍され、平成になってからも多くの作品に出演された池内淳子さん。
今後も、作品とともにその美しさは人々の心に残り続けることでしょう。