寺脇康文の生い立ちと父親との関係。実家は大阪で、弟は医者。

寺脇康文は、2000年から2008年までの間、『相棒』で水谷豊氏と共に主演を務め、その名を広く知られるようになりました。

寺脇氏の弟は医師として活動していると言われています。

父とのエピソードや、大阪府堺市から岐阜県岐阜市へと移り住んだ実家の話など、若き日の寺脇氏の生活についても触れていきます。

 

寺脇康文のプロフィール

  • 生年月日:1962年2月25日
  • 身長:180cm
  • 出身地:大阪府大阪市
  • 最終学歴:岐阜県立岐陽高等学校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)卒業
  • 所属事務所:アミューズ

 

寺脇康文の弟は医師で医大の教授

寺脇康文氏の弟、寺脇博之(てらわき ひろゆき)氏は医師として活動しています。

岐阜大学医学部を卒業後、聖路加国際病院内科系レジデント、福島県立医科大学人工透析センター部長・准教授を歴任。

2023年現在は帝京大学ちば総合医療センターの腎臓内科に勤務、教授であり腎センターとして重責を担っています。

腎研究室のホームページで、博之氏は、腎臓内科医を目指す若い先生方へのメッセージを発しています。

お写真を拝見すると寺脇康文氏とはあまり似ていないかもしれません。

 

父親との別れ、4人兄弟の6人家族

 

寺脇康文氏の家庭環境は、父と母、2人の姉と寺脇氏自身、そして1人の弟から成る6人家族だと伝えられています。

寺脇氏の父親は、美術品の輸入販売を手がける「寺脇商事」を経営していました。

美術品が売れると、父親はその収益を散財することがあったと言われています。

学校がある平日でも、「気にせず休んでしまえ」と言って家族旅行に出かけることもあったそうです。

寺脇氏を深く愛していた父親は、自分の会社を寺脇氏に継いでほしいと願っていました。

しかし、寺脇氏はすでに俳優になる夢を抱いており、「10年だけ挑戦させてほしい」と言って劇団に入団し、芸能界への道を歩み始めました。

約5年で生計を立てることができるようになり、一番のファンであった父親は常に劇団の公演を観に来て、寺脇氏を褒め称えていたと言います。

父親は短気な一面も持っており、いつ怒り出すかわからないその性格に、家族はいつもドキドキしていました。

しかし、その短気さとは裏腹に、豪快で裏表のない性格だったため、周囲からは愛されていたようです。

寺脇氏の父親は、81歳でこの世を去りました。

 

寺脇康文の実家は堺市。その後は転々とし、現在は羽鳥市?

寺脇康文氏の実家は、康文氏が小学2年生の時に、大阪府堺市から岐阜県岐阜市に引っ越しをされています。

岐阜市立長良小学校を卒業。寺脇康文氏には、2人のお姉さんが居ます。

そのせいか、幼少期の頃から甘えんぼだけど、やんちゃで目立ちたがり屋だったそうです。

幼稚園児の時まで親戚のお姉さんに添い寝をしてもらっていたとのこと。

性格もかわいいけれど、顔だちもかわいかったのでご両親は「康文は、将来ハンサムになるだろうなー」と期待されていたとのこと。

実際、高身長、イケメンでかっこ良い男性に成長。
小学校時代も目立ちたがりな性格は続いており、このようなちょっとした事件がありました。

ある日、いつものようにスカートめくりを楽しんでいたやんちゃな寺脇少年。ついに、スカートめくりがバレてホームルームで担任の先生に「スカートめくりした人は自分もズボンを下ろしなさい。出来ない人は女子に謝って反省しなさい。」と言われてしまいました。
一緒にスカートめくりをしていた友人たちは恥ずかしがって女子に謝り反省しているのに、寺脇少年だけは、目立つのがうれしくて喜んでズボンを下したとの事。

そんな目立ちたがり寺脇少年の小学校卒業文集には、「将来の夢はスターか漫画家」と書かれています。母親は寿司職人だったため、寺脇康文氏の友人は「寿司が食べられる」と言っていつも友人が集まっていました。

当時のあだ名は「テラ」だったようです。中学校は、学校区から考えると岐阜市立長良東中学校になります。しかし、中学校は公表されていません。

岐阜県羽島市で育ったという情報もあるため羽鳥市の中学に通われた可能性もあります。

寺脇康文氏の出身高校は岐阜県立岐陽高等学校なので、いずれにしても岐阜県内の中学に通われたことは確かです。