三島由紀夫の妻との結婚生活とは。娘・息子のその後。子孫は現在何をしている?

『潮騒』や『豊饒の海』といった作品で名を馳せた作家、三島由紀夫。

彼の死から半世紀以上が経過しても、彼の独特な美学と、自己の深層を見事に描き出した作品は、今なお多くの人々の心を捉えています。

三島の壮大な人生に興味を持つ人は多いでしょうが、彼の家族について詳しく調査した人は少ないかもしれません。
今回は、三島の娘や息子がいるのか、結婚と妻について、そして子孫の存在について探ります。

 

三島由紀夫のプロフィール

本名:平岡公威
生年月日:1925年1月14日
死没:1970年11月25日 (享年45歳)
身長:163cm
出身地:東京都新宿区四谷
最終学歴:東京大学法学部法律学科

 

三島由紀夫の子供たち。娘、息子のその後

まず、三島の子供について見てみましょう。

三島には、1959年生まれの娘、1962年生まれの息子が1人ずついます。

・娘・平岡紀子

三島の娘(長女)は、平岡紀子さんという名前で、結婚後は冨田姓を名乗りました。

父が著した戯曲、『葵上』と『弱法師』が舞踊劇化された際には、彼女自身が演出を担当し、舞台演出家として活動しています。
彼女の学歴は、初等科から大学まで一貫して学習院に通っていました。

三島は自決の日、市ヶ谷駐屯地に向かう車中で学習院を通り過ぎた際、「私の子供たちは今、ここで授業を受けている最中だ」と発言しました。これは、彼が最後まで娘のことを思い続けていたことを示しています。

1990年に外交官の冨田浩司さんと結婚し、シンガポールへ駐在、現地で出産しました。

 

・息子・平岡威一郎

三島の息子(長男)の名前は、平岡威一郎さん。

後に実業家・映像作家となりました。

そして、映画に深い造詣を持ち、父の映画論の集成『三島由紀夫映画論集成』を監修しました。

2005年には、三島原作の映画『春の雪』でも企画から監修まで担当しました。

彼の経歴については、名門開成中学校を卒業後、アメリカに渡り、現地の大学を目指していました。
エリートとも言える経歴ですが、映画の道を志し、帰国しました。

その後、市川崑監督の下で映画製作を経験しました。
しかし、映画の道は断念したのか、1988年には「アウローラ」という宝飾店を開業しました。

さらにその後は作詞家を目指し、売野雅勇さんに弟子入りしました。
しかし、威一郎さんが書く歌詞はあまりにも高雅で、ポップスには向かないと評され、作詞家の道も断念しました。
この点は、三島の流麗な文体を見事に継いだことが仇になったとも言えます。

三島は威一郎さんを大変可愛がり、ボディビルで鍛えた体を活かして怪獣役となり、息子とその友達を楽しませていたそうです。
自決を決意してからは、子供との時間をなるべく多く過ごすため、威一郎さんを後楽園の遊園地に連れて行きました。

ある日、デパートで買い物をした際、おもちゃを原因として親子喧嘩が生じます。
その際、威一郎さんが三島に対して、「お父様なんか死ねばいい」と口にしたそうです。
既に死を決意していた三島は、その言葉に本気でショックを受けた様子だったと言われています。

子供たちを残してでも、信念を曲げずに自決する道を選んだ三島。紀子さんと威一郎さんは、複雑な感情を抱え、周囲からも後ろ指を指されることがあったかもしれません。
しかし、成人後の2人が、偉大な父を敬愛していることは、その行動からうかがえます。

福島次郎さんが三島と愛人の関係をつづった小説『剣と寒紅』を出版した際、作中で三島の往復書簡が無断で使用されたことが発覚。
紀子さんと威一郎さんは、著作権侵害として文藝春秋を訴え、2000年に勝訴を果たしました。

三島の存在は、暗くも成り得た2人の生涯を、今では明るく照らしてくれているのかもしれません。

 

三島由紀夫の結婚と妻の生活

次に、三島の結婚と妻について見ていきます。

三島の妻は平岡瑤子(旧姓:杉山)という女性です。
彼女の父親は日本画家の杉山寧で、幼少期から能に親しむなど、芸術に造詣が深かったことがうかがえます。

非常に評判の良い美人で、日本女子大学英文科2年生の年に、三島と見合いをしました。
お嬢様育ちで、しかも丸顔のかわいらしい風貌が三島の好みに合い、順調に結婚まで進んでいます。
1958年に、三島の師匠にあたる川端康成の媒酌で、港区の明治記念館にて結婚式を挙げました。

21歳だった瑤子は専業主婦として夫を支えるため、大学を中退までしています。
それだけ愛情が強かったのか、三島周辺の女性に加え、三島の愛猫チルにまで警戒のまなざしを向けるほど嫉妬深かったそうです。

三島にとってはかわいいお嬢様だったかもしれませんが、周囲から見るとかなり気風の良い女性だったという瑤子。
夫の代わりに車を運転し、自宅でのパーティーでも段取りを仕切ります。

三島自決後は、作品の著作権保護と彼の名誉を守るために活動。
三島に関連した芸術作品に少しでも問題があれば出版停止に追い込むなど、しっかり者の妻らしく責任を果たしました。
そのため1995年に瑤子が亡くなってから、ようやく出版できた書籍もあるということです。

見方によれば悪妻かもしれませんが、三島が自決した際に壊した器具を弁償したことを考えれば、良妻と言えるでしょう。

三島の自決直前、外出先の妻から自宅に電話がかかってきています。用件を聞いた家政婦が受話器を置こうとするのを止めた三島。
そして受話器を耳にして、妻の声を聞いてから電話を切ったそうです。
かかってきた電話が、妻との最後の会話になることを察知したことによる行動だったはず。

三島が瑤子を生涯愛し続けたことがうかがえますね。

 

三島由紀夫の子孫は現在、なにをしている?

 

最後に、三島の子孫の現在を紹介します。

三島の子供は先述の通り、紀子さんと威一郎さんの2人です。

三島の娘の紀子さんはシンガポールで子供を出産しましたが、子供は一般人のため情報はありません。
しかし、三島の孫にあたる人物が存在していることは確かだとわかりました。

文化芸術方面で活動しているなら、三島の孫だと知れ渡るはずなので、おそらく関係のない仕事で平穏に暮らしているのでしょう。
三島は小説家を「綱渡りのような商売」として、自分の子供が同じ職業に就くことを恐れていました。
そんな祖父の希望通り、不安定な芸術方面とは別の道に進んだのでしょう。

ただ紀子さんは演出家、威一郎さんは映画人ですから、その子孫となると芸術の血は必ずしも薄まっていないかもしれません。
三島の孫が、いつの日か文化芸術の世界で活躍する日が来るかもしれませんね。

 

三島の息子、威一郎さんについては、結婚や子供についての情報は公には出ていません。

しかし、彼が宝飾店を経営していることから、一般的な生活を送っていると推測できます。

三島由紀夫の家族について詳しく見てきましたが、彼の家族もまた、彼と同じように個性的で魅力的な人々であることがわかりました。

彼らが三島の遺した美学を受け継ぎ、それぞれの道で活躍していることは、三島の遺した影響力の大きさを示しています。

 

まとめ

三島由紀夫の家族についての詳細な情報は少ないですが、彼の作品を通じて、彼の家族についても少しだけ理解することができました。

彼の家族が、彼の死後も彼の遺した美学を守り続けていることは、彼の影響力の大きさを改めて感じさせます。

三島由紀夫の家族についての詳細な情報は、彼の作品を通じて、または彼の家族自身が語ることでしか得られません。

しかし、彼の家族が彼の遺した美学を守り続けていることは、彼の影響力の大きさを改めて感じさせます。

三島由紀夫の家族についての詳細な情報は、彼の作品を通じて、または彼の家族自身が語ることでしか得られません。

彼の家族が彼の遺した美学を守り続けていることは、彼の影響力の大きさを改めて感じさせます。