板東英二は甲子園で高校野球記録を残していた! 中日ドラゴンズでのプロ野球時代の成績は?

板東英二さんは、クイズ番組やバラエティでの活躍で知られていますが、実は元プロ野球選手であることはあまり知られていません。

タレントとして知られる板東英二さんですが、今回は彼の高校野球やプロ野球での成績について解説します!

【板東英二のプロフィール】

愛称:ばんちゃん

本名:板東英二

生年月日:1940年4月5日

身長:170cm

右投げ右打ち

出身地:満洲国東安省虎林県

最終学歴:徳島商業高等学校

プロ通算成績:77勝65敗

所属事務所:吉本興業

 

【板東英二が甲子園で樹立した高校野球記録とは⁉】

 

板東英二さんは、地元の板東中学校時代から注目を集め、エースとして61連勝という記録を残しました。1956年には徳島県立徳島商業高校に進学し、野球部に所属しました。

1年生の時にはチームが甲子園に出場しましたが、板東英二さん自身は出番がありませんでした。2年生の時には徳島県大会(夏)で決勝戦で敗れ、甲子園出場を逃しました。

しかし、高校最後の夏には板東英二さんがエースとして活躍し、第40回全国高等学校野球選手権大会の徳島県代表になりました。

板東英二さんは、40回大会の第二回戦で秋田商業高校を3-0で下し、第三回戦では八女高校を3-1で下しました。

準々決勝では魚津高校との試合が0-0のまま18回まで続き、再試合では9回に勝利しました。

準決勝では作新学院高校と対戦し、決勝進出を果たしました。しかし、決勝では柳井高校に0-7で完封負けし、夏の大会は終わりました。

板東英二さんは、甲子園大会での記録で知られており、1試合での25奪三振通算83奪三振は、今もなお残る高校野球記録です。

現在、高校野球界では球数制限が議論されており、板東英二さんの記録は永久に残る可能性が非常に高いでしょう。

【板東英二の中日でのプロ時代の成績は?】

板東英二さんは、1959年に中日ドラゴンズに入団しましたが、身長166cm、体重66kgと小柄なため、出番はありませんでした。

彼はバッティングピッチャーや敗戦処理を担当し、練習で選手をデッドボールで怪我させるなど、クビになる覚悟も覚えていました。

営業の仕事で結果を出すなど、既に話術は一流だったようです。

しかし、徐々に頭角を現し、2年目には10勝11敗という二桁勝利を記録し、翌年には21歳の若さで開幕投手に指名されました。

1966年8月26日の巨人戦では、1点リードされた8回裏に登板し、打者を1球で打ち取り、中日が逆転したため、勝利投手となりました。

また、彼は甲子園大会で延長18回を投げ抜いたことでも知られており、中日ドラゴンズの史上2人目の1球勝利投手となりました(セ・リーグおよび日本人投手では初)。

しかし、1968年6月には右ひじの軟骨除去の緊急手術を受け、その後も右ひじの具合が悪く、引退後の現在もまっすぐに伸ばすことができないそうです。

1969年には16試合に登板しましたが、プロ入り初の未勝利に終わりました。その後、水原茂監督からコーチの打診があったものの、球団の人事異動の混乱もあり、コーチ就任は実現しませんでした。

 

【現役時代、板東英二はカーブが投げられなかった!?】

プロ現役時代、板東英二は、カーブを投げることができない選手でした。

「指を数える時、こんなふうに順番に折っていくでしょう?見てください、中指と薬指が同時に曲がってしまうんです。これではカーブを投げることができません」と板東英二さんは語ります。
1で親指、2で人さし指。何度やっても、板東さんの3本目の指は同時に曲がってしまいます。
これはケガが原因ではなく、彼が幼い頃からそうだったのです。

彼は4人兄弟の末っ子として旧満州に生まれました。
終戦直前にソ連軍の侵攻があったため、一家は命からがら日本へ帰国しました。引き揚げ者たちは徳島県の板東町(現在の鳴門市)にある「板東俘虜収容所」で生活しました。
この収容所は第一次世界大戦中に使用され、ドイツ兵捕虜が日本で初めて「第九」を演奏したことで知られています。

徳島商業高校では夏の甲子園で史上初めて引き分け再試合を経験し、通算83奪三振の記録は現在も大会史上の偉業です。
板東さんは「真っすぐしか投げられなかった」と語りますが、それでも見事な投球でした。
プロ野球では変化球が必要ですが、彼にはカーブは不可能でした。
「たったひとつの変化球」として板東さんが使ったのはフォークボールでした。
入団時に監督だった杉下茂のもとで神様から直接伝授されたフォークボールを彼はすぐに使いこなすようになりました。

「指が短いので苦労しましたが、一生懸命にフォークボールの練習をしました」と板東さんは振り返ります。
彼は積極的に起用され、2年目の1960年には早くも2桁勝利を達成しました。翌1961年には開幕投手を務めるなど、エースとしての地位を確立していきました。

【まとめ】

・板東英二は徳島商業高等学校時代に甲子園に出場。
・第40回大会では決勝に進むも柳井高校に敗北
・1試合25奪三振、大会通算83奪三振の高校記録を樹立
・高校卒業後は中日に入団し、通算77勝65敗
・板東英二は中指が曲がっていたためカーブが投げられなかったが、フォークボールに磨きをかけプロでも活躍