美輪明宏の悲惨な生い立ち。ハーフで差別?母との死別、貧しい家族を支えた過去

長年にわたり、俳優や歌手として活躍してきた美輪明宏さん。
シャンソン喫茶「銀巴里」で、神話のような美青年歌手としてデビューし、芸能界に足を踏み入れました。

その端正な顔立ちは、日本人離れしているとも言え、ハーフではないかとの噂も流れました。

今回は、美輪さんのハーフ説の真相を探りつつ、母との別離、そして兄弟や家族を支えた厳しい生い立ちについて解説します。

 

美輪明宏のプロフィール

  • 幼名:丸山臣吾
  • 本名:丸山明宏
  • 生年月日:1935年5月15日
  • 身長:161cm
  • 出身地:長崎県長崎市
  • 最終学歴:国立音楽大学附属高校中退
  • 所属事務所:オフィスミワ

 

美輪明宏はハーフ?

美輪さんの若い頃の姿を見ると、まるで西洋人のような大きな瞳と通った鼻筋を持つ、美しい青年だったことがわかります。
この顔を見れば、誰でも美輪さんがハーフではないかと思います。

しかし、美輪さんの顔立に反し、実際にはハーフではありませんでした。

父・丸山作一さん、母・ヌメさんはともに純粋な日本人です。
両親ともに美男美女だったため、美輪さんは日本人離れした美しい青年に育ちました。

美輪さんはデビュー当初、国籍・性別・年齢がすべて不明というスタンスを取っていました。
また、メイクを施した姿はさらに彫りの深さが強調されるため、異国の王族のような風貌に見えていたはずです。

しかし、美輪さんはハーフではなかったものの、外国人の血が混ざっている可能性はゼロではありませんでした。
故郷の長崎県は、海外との交流を禁じていた江戸時代から、出島などを通じて異国とつながっていた土地。そのため長崎県の人々の中には、遠い先祖が外国人と人知れず血縁関係になっていた可能性もあるのです。

 

美輪明宏は母と2歳の時に死別。

美輪さんはわずか2歳のときに、母のヌメさんと死別しています。

ヌメさんは元看護婦で、大阪の日赤病院の看護婦長を務めた優秀な女性でした。
しかし若くして亡くなってしまい、美輪さんは父の後妻から育てられます。

後妻は食料品店の娘だった女性で、非常に優しく接してくれたそうです。

しかし美輪さんが9歳のときに、後妻も早世してしまいます。

その後やって来た父の3番目の妻は失踪してしまい、結果的に美輪さんは3度も母を失った傷を心に負ってしまうのです。

 

美輪明宏、家族を支えるために壮絶な芸能人生へ

・美輪明宏の幼少期と戦争と原爆

実家は長崎県長崎市内にあった「丸山遊郭」と呼ばれる遊郭街で、カフェを経営する裕福な家でした。

しかし戦争によりカフェ経営は困難となり、父は金融業に転身します。
1945年8月9日には長崎県への原爆投下によって、貸付先が次々と破産し、返金を受けられなくなってしまいました。

一家も被爆して、貧しい生活を送ることになるのです。
そして、美輪さんには、後妻が残した異母兄弟も含めると、自分を入れて9人もの兄弟がいました。

美輪さんは兄弟と父を支えるため、一生懸命に家族の面倒を見るようになります。
母との別れ、自身の被爆という壮絶な経験をしながらも、決してへこたれることはありませんでした。

やがて歌手を夢見て上京し、15歳で国立音楽高校(現在の国立音楽大学附属高校)に進学します。
しかしあるとき、帰省した際に父と大喧嘩してしまい、家族とは絶縁することになりました。

仕送りを止められた結果、高校を中退し、進駐軍のキャンプで歌を歌いながら生活費を稼ぐようになります。
必死に働いてもお金が足りず、駅で野宿することもありました。

 

・シャンソン喫茶「銀巴里」の専属歌手に

転機となったのは、日本初のシャンソン喫茶「銀巴里」の専属歌手になったこと。1957年にシャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーしたところ、美しい容姿も相まって一躍注目の的となります。

レース地のワイシャツを身に付け、美青年歌手として人気と知名度を獲得するのです。

芸能界での華々しい活動からは想像もできないほど、悲惨な幼少期を送った美輪さん。

しかし不幸を不幸と思わず、強い意志を持って行動し続けた結果、壮絶な経験をバネに飛躍することができたのです。