寺山修司の人間関係。離婚した妻、美輪明宏、高橋ひとみ、三上博史、母について解説。

60年代から70年代にかけて、体制に迎合しない異端児として時代を挑発し続けた寺山修司氏。

歌人、劇作家、作家、映画監督、劇団主宰者、評論家等、多岐にわたる分野でその才能を発揮した彼の魅力は今も色褪せていません。

この記事では、寺山修司氏の人間関係に焦点を当て、彼の離婚した妻や母親、そして彼と深い関係を持った美輪明宏氏、高橋ひとみ氏、三上博史氏について詳しく解説します。

 

寺山修司のプロフィール

本名:寺山修司

ニックネーム:言葉の錬金術師

出身地:青森県弘前市

生年月日:1935年12月10日

没年月日:1983年05月04日

年齢:享年47歳

星座:いて座

職業:作家、作詞家、映画監督、役者、俳優

略歴
青森県出身の劇作家、詩人、映画監督。50年代後半から脚本家として活動をはじめ、67年に劇団「天井桟敷」を立ち上げ「毛皮のマリー」「邪宗門」などをヒットさせる。1971年「書を捨てよ、町に出よう」、74年「田園に死す」で映画監督をつとめ、高い評価を獲得し、作詞家としてもカルメンマキに「時には母のない子のように」のヒットをもたらす。1983年死去。

 

寺山修司と離婚した妻。元妻が死後に寺山を有名にした!

寺山修司氏は多岐にわたる活動から「言葉の錬金術師」「サブカルチャーの先駆者」「昭和の啄木」「三島由紀夫のライバル」「政治嫌いの革命家」などの異名をとりました。

その多才さは「寺山修司複数説」を生むほどで、彼自身が「職業は寺山修司」と答えるほどでした。

寺山氏は早稲田大学在学中に腎臓疾患で入院した経験があり、その経験が彼のワーカホリックの原因となったと言われています。

 

彼が1983年に亡くなった後、彼の作品を次世代に伝えるために尽力したのは、離婚した妻の九條今日子氏でした
九條氏は元SKD(松竹歌劇団)の女優で、寺山氏とは1963年から1970年まで婚姻関係にありました。

寺山氏が死後35年経った今でも多くの人に崇敬されているのは、彼の元妻である九條氏の尽力が大きいと言えます。
九條氏は2014年に自宅で亡くなるまで、元夫の仕事をサポートし続けました。

彼女が離婚後も寺山氏の仕事を続けた理由は、夫婦関係を超えた表現者としての使命感があったのかもしれません。

 

寺山修司の母:毒親だった?

寺山修司氏の父は、寺山氏が幼い頃に出征し、戦病死したため、家族は母一人子一人でした。

その母親、ハツ氏は、息子を木に縛りつけて叩いたり、成長してからは結婚を反対し続け、火をつけた着物を新居に投げ込んだりと、困った行動が多かったようです。

ハツ氏は進駐軍の米軍キャンプで働いており、福岡のベースキャンプに移るために一人息子を親類に預けたこともありました。
後年、マネージャーの田中未知氏は著書『寺山修司と生きて』の中で、ハツ氏をこう語っています。

「彼女を知って分かったことは、三ヵ月以上は平和に暮らしていられない性格だということである。何も問題がないと、決まって三ヵ月ほどすると自分で問題を作り出す。
人と争うその闘争心が彼女のエネルギーを燃え立たせ、彼女をさらに元気にする。
自分が面白くなければ、すぐに「週刊誌に電話してやる!」、それが息子に対する彼女の決まり文句であった。」

このような母と息子のいびつな関係は、将来の作品群にも影を落とすようになっていきます。

 

寺山修司と美輪明宏

 


1967年、寺山修司氏が美輪明宏のために書き上げた『毛皮のマリー』

寺山氏亡き後は美輪氏が自ら演出して上演を重ねてきた、親子の愛憎劇を描く傑作です。

作中の台詞や作品世界に対する美輪氏の深読みに、作者である寺山氏は驚いたといいます。

言葉に込められた人生哲学について美輪さんなりの解釈を伝えたところ、寺山さんは、「あなたは恐ろしい人だ。」と答えたそうです。

 

寺山修司の秘蔵っ子・高橋ひとみ&三上博史

・寺山修司と高橋ひとみ

17歳の時に寺山修司氏演出の舞台のオーディションに合格した高橋ひとみ氏。同期である三上博史氏とともに「寺山修司の秘蔵っ子」と称されました。

寺山氏とは師弟を越えた関係にあったようで、最後に愛した女性といわれています。

高橋氏が一躍有名になったのは、1983年のドラマ『ふぞろいの林檎たち』でした。

実は当初、このドラマに出演する予定はなかったそうです。

しかし、自分の人生があまり残されていないことを悟った寺山修司氏は、脚本を担当する親友の山田太一氏に直訴。高橋ひとみ氏の行く末が気がかりだったのでしょう。

・寺山修司と三上博史

一方、三上博史氏は、寺山修司氏が監督・脚本を務めた泉鏡花原作の映画『草迷宮』で、わずか15歳でデビュー。

一時期はトレンディドラマのエースと呼ばれましたが、現在(2023)はテレビドラマの露出が少なくなっています。

役柄によってライフスタイルさえ変えるという三上氏。命を削るくらいの本気度で向き合わなければリアリズムは生まれないと語ります。

 

まとめ

寺山修司氏は、1983年に47歳の若さでこの世を去りました。

寺山氏のことを知らなくても、『書を捨てよ、町へ出よう』という著書のタイトルを聞いたことがある人は多いでしょう。

社会規範や固定観念に勝負を挑んだ、反骨のクリエイターでした。