寺山修司の死因は肝硬変。競馬好きでハイセイコーに別れの詩も。数々の名言も紹介!

寺山修司氏は、その死後35年以上の歳月が流れた現在でも、今なお世界でその輝きを放ち続けています。

彼が手掛けた演劇は多くの劇団によって再演され、彼が作詞した数々のポピュラーソングは世代を超えて歌い継がれています。

この記事では、寺山修司氏の死因を探り、彼が深く造詣を持っていた競馬、そして昭和の名馬ハイセイコーとの関わり、そして「言葉の錬金術師」が残した名言について掘り下げていきます。

 

寺山修司のプロフィール

 

本名:寺山修司

ニックネーム:言葉の錬金術師

出身地:青森県弘前市

生年月日:1935年12月10日

没年月日:1983年05月04日

年齢:享年47歳

星座:いて座

職業:作家、作詞家、映画監督、役者、俳優

略歴
青森県出身の劇作家、詩人、映画監督。50年代後半から脚本家として活動をはじめ、67年に劇団「天井桟敷」を立ち上げ「毛皮のマリー」「邪宗門」などをヒットさせる。1971年「書を捨てよ、町に出よう」、74年「田園に死す」で映画監督をつとめ、高い評価を獲得し、作詞家としてもカルメンマキに「時には母のない子のように」のヒットをもたらす。1983年死去。

 

寺山修司の死因とは?

寺山修司氏は、大学在学中からネフローゼ症候群(腎臓疾患)を抱えており、47歳で他界するまで健康な状態には戻らなかったと言われています。
彼は常に病気と闘いながらも仕事を続けていました。演劇は共同作業であり、体調が悪くても一人だけ休むことはできません。

彼の劇団、天井桟敷の舞台は海外でも高く評価され、海外公演も頻繁に行われました。

体調は悪化の一途をたどり、1979年には肝硬変で入院。
しかし、彼は自分の命の限界を切実に意識しながらも、休むことなく仕事に打ち込み続けました。

1981年には肝硬変で再入院し、45歳の時に医師に対して「あと5年間は演劇をやりたい。とにかく60歳まで生かしてほしい」と訴えたと言われています。

翌1982年には詩『懐かしのわが家』を発表し、パリ公演を行いました。

そして1983年5月4日、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発し、47歳でこの世を去りました。

 

寺山修司と競馬と怪物ハイセイコー

寺山修司氏は競馬をこよなく愛していました。

1973年のJRA(日本中央競馬会)のテレビCMで彼はこう語っています。「遊びっていうのはもう一つの人生なんだな。
人生じゃ敗けられないことも遊びでだったら敗けることができる。」彼の競馬への情熱は1956年、腎臓疾患で入院中に同室だった韓国人から影響を受けたことから始まりました。

彼は新聞に競馬コラムを連載したり、競走馬にニックネームをつけて個性を浮き彫りにしたり、競馬特番のナビゲーターを務めたりと、競馬を愛し続けました。

また、競走馬ユリシーズの馬主でもあり、1972年の凱旋門賞に参戦したメジロムサシを現地で観戦しました。

そして、1974年の有馬記念で2着に敗れ引退した国民的アイドルホース・ハイセイコーに捧げた別れの詩『さらばハイセイコー』も、往年の競馬ファンにはおなじみの一篇です。

 

寺山修司の名言集

「言葉の錬金術師」と称された寺山修司氏は、物事を鋭く洞察し、真実を突いた名言を数多く残しています。以下にその一部を紹介します。

  • 「人間に与えられた能力の中で、一番すばらしいのは想像力である。」
  • 「貧しい想像力の持ち主は貧しい世界の終わりを持ち、豊かな想像力の持ち主は豊かな世界の終わりを持つだろう。」
  • 「この世でいちばん遠い場所は、自分自身の心である。」
  • 「大体、不満屋ってのは世の中との折り合いが悪いんじゃなくて自分との折り合いが悪い奴のことなんだから。」
  • 「ほらほら、星がでている。でているけど、屋根があるから、ここからは見えない。 だが、見えない星も人生のうちなんだ。 見えるものばかり信じていたら、いつかは虚無におちるだろう。」
  • 「悪口の中においては、常に言われている方が主役であり、言っている方が脇役であるという宿命がある。」

これらの名言は、あなたにとってどのように響きますか?寺山修司氏は、あらゆる活動を通じて「言葉」にこだわり続けました。その言葉には、今を生きる私たちにも指針となるメッセージが溢れています。

寺山修司氏の死因、競馬への深い愛情、そして彼が残した名言。これらを通じて、彼の生きざまとその思想を感じ取ることができるでしょう。